第4章  災害対応

九州は日本の南西部に位置し、年間を通じて自然災害にさらされやすい地域である。

その中でも特によく見られる災害の一つが梅雨前線や台風などに伴う豪雨による洪水や土砂災害である。

過去には大雨による被害が度々報告されており、山間部や川沿いの地域では土砂崩れや河川の氾濫が発生し、住宅や農地が被害を受けたことがある。

また、九州は火山も多く、噴火による災害も発生する恐れがある。例えば、桜島(鹿児島県)や阿蘇山(熊本県)などがその代表例である。

これらの火山は活発に活動しており、噴火による火山灰や溶岩流が周辺地域に影響を与えることがある。

さらに、地震も九州で頻繁に発生する。特に、福岡西方沖地震(2005年)や熊本地震(2016年)など、

過去に大きな地震が発生し、甚大な被害をもたらした。

このようなことから、九州の地域は自然災害に対する備えが重要であり、地域住民や自治体は定期的な避難訓練や災害対策の強化に取り組んでいる。

当社の業務はライフラインと関連しており、ひとたび災害が発生すると被害状況を確認して、復旧のための対応が求められる。

また、状況をいち早く報道するための報道専用機や、調査のために九州地方整局(以下、九地整と表記)機が出動する。

災害発生時は、一刻も早く報道したいとか復旧のための調査をしたい等のニーズから、

すぐにフライトして欲しいというプレッシャーが強くかかるが、豪雨災害の場合は天候が悪いことが多く、

噴火や地震についても時間外に発生すると要員の手配や機体の準備のため、離陸までに時間がかかることがある。

近年BCPを作成してそれに従って対応するようになったが、災害には決まったパターンがあるわけではなく、現場は常に臨機応変な対応が求められる。

以下に過去20年のうちに発生した災害における当社の対応について紹介する。

福岡県西方沖地震(2005年3月20日)

2005320日(日曜日、春分の日)、3連休の中日であるこの日、雲は多いものの高曇りで、風も弱く穏やかな天気であった。

午前1053分、福岡県北西の玄界灘でマグニチュード7.0、最大震度6弱の地震が発生した。

震源に近い玄界島では住宅の半数が全壊するなど、沿岸地域を中心に大きな被害が出た。

当時、事務所は福岡空港内の板付基地で、西側格納庫に報道各社の機体が待機していた。

電話が不通になり被害状況がほとんどわからないまま、1130分には最初の報道機が西側から離陸、各社それに続いた。

東側からも共同通信や西日本新聞社等取材のヘリが飛び始め、結局この日は当社だけで8機のヘリが飛行、飛行時間は合計で23時間26分にも及んだ。

地上でも、非常招集で参集した者が報道各社の出入りや電話への対応、各部との調整等に駆け回った。応援体制が整ったのは13時頃のことだった。

21日からはさらに九州電力の緊急パトロールが加わった。

AS350だけでは足りずにBK117も使用し、23日までに福岡や佐賀で延べ6機、20時間20分飛行した。

その後も度重なる余震、玄界島の全島避難など飛行する機会は続き、331日までの取材飛行は延べ49回、60時間23分にも上る大災害だった。

東日本大震災対応(2011年3月11日 3月12日~15日(JA005W)、3月12日~22日(九地整))

東日本大震災は、2011311日(金)に発生した日本の歴史的な地震と津波の災害である。

マグニチュード9.0の巨大地震が、東北地方の太平洋沿岸部を襲った。

この地震は、津波を引き起こし、沿岸部を襲って甚大な被害をもたらした。

津波は沿岸部のコミュニティを壊し、数十メートルもの高さで海岸線を襲い、多くの建物や家屋を完全に破壊した。

この災害は1万8千人以上の死者・行方不明者を出し、多くの人々が家を失い、被災地域の復興は長期間にわたっている。

当社機の対応は、福岡県ドクターヘリ機(JA005W)がDMATとして出動することが決定。

312日にDMAT隊員4名を乗せ一旦板付基地によって、その日は静岡ヘリポートまで進出。

13日昼過ぎに福島医大に到着し活動を開始。

14日に患者搬送を行い、つくばヘリポートまで移動。1518時過ぎに久留米大学病院に帰投した。

その翌日、久留米大学の放射線を専門とする先生方の指導のもと、機体の除染作業が行われた。

九地整機(JA6784)は12日朝6時半に福岡空港を離陸。その日のうちに福島空港に到着。翌日から調査飛行を開始。

17日には霞が関にあるヘリポートから調査員を乗せて飛行するなど18日まで活動。

1日あけて20日に東京ヘリポートから高松空港まで移動。そこで機体の除染作業を行った後、22日に福岡空港に帰投した。

JA005Wの活動期間は312日から15日までの4日間、飛行時間は14時間53分、

JA6784の活動期間は312日から22日までの11日間、飛行時間は37時間30分であった。


 寄稿文

  東日本大震災に於ける、ドクターヘリでの災害支援活動にあたって

整備部 上野 和隆

2011311日、日本列島を未曾有の災害が襲った東日本大震災から、早いもので一回り以上の歳月が流れました。

しかしながら、被害に遭われた方、未だに苦しんでいらっしゃる方が、沢山いらっしゃると思います。心よりお見舞い申し上げます。

さて、震災発生当時、私は久留米ドクターヘリ業務を、主に担当していました。

発災当日は、久留米勤務への入り込み交代日で、板付基地で働いていました。(当時の交代日は、夕方まで基地勤務し、久留米の宿舎に入り込みのみ)

そして運命の14:46大地震が起き、15:00の休憩時に整備事務室のTVで見たライブ映像は、

本当に現実の物かと目を疑う様な津波の映像であり、これは大変な事が起きてしまったなと思いました。

久留米の宿舎に入り込みましたが、その日の夜には、明日以降被災地へ行く可能性があるので、準備をするよう連絡を受けたと思います。

12日は、通常のスタンバイに入りつつ、被災地への出動に備えて脚立、手回し燃料ポンプ、機体カバー、工具等資機材の準備をし、

福岡県と、久留米大学病院内との調整を経て、10:00頃には正式に派遣が決定したのではなかったかと思います。

我々ドクターヘリチームは、久留米大学DMAT隊の第2隊として、被災地に赴く事になりました。(第1隊は、早朝に福岡空港から自衛隊機で既に出発済み)

チーム編成は、FD(フライトドクター)1FN(フライトナース)2、調整員1,それに当社から操縦士、整備士(私)の6名でした。

更に、機内にはDMATの資機材、上記ヘリ側の資機材、個人の荷物、

それに病院側で準備頂いた食料(コンビニ弁当、おにぎり、飲物など、全員分で2日分程度)を積込み、キャビン内はぎゅうぎゅう、パンパンでした。

必要物品を積み込み、いざ出発となり、11:00過ぎに久留米大学病院を離陸しましたが、一旦、板付基地経由となりました。

と言うのも、本機のJA005Wが災害派遣で留守の間、福岡県のドクターヘリ事業を継続するため、

JA6667にドクターヘリの医療器材を載せ替える必要があったからでした。

機材載せ替え作業が完了し、いよいよ被災地に向けて福岡空港を離陸したのが、13:05。日没の関係もあり、初日12日は、静岡泊まりになりました。

宿泊したホテル近くのコンビニに立ち寄りましたが、食べ物、飲み物になる物は全く無く、

普段の生活には不要であろう物が残っている程度で、店内はほぼ空っぽでした。

ホテルに帰ってからは、チーム全員でミーティングを兼ねて、病院から用意頂いたコンビニ弁当での夕食でした。

議題は翌日の活動方針でしたが、新たな懸念事項が有りました。

そうです、あの福島第一原発の原子炉建屋が、水素爆発した原発事故の発生です。

実は、静岡までの移動の道中、少しでも何か情報を得られる様に、カーナビをTVモードにして、モニターしていました。

そこに跳び込んで来たのが、原子炉建屋が爆発すると言うショッキングな映像で、今でも鮮明に覚えています。

その日の夜は、被災地の状況や原発事故の事など、あらゆる情報が入手困難であったため、翌朝のミーティングで今後の行動を決める事となりました。

2日目の朝7:00から再ミーティングを行い、被災地の医療ニーズが高いという情報から、この日は福島入りすることなりましたが、

原発事故の追加情報が無いことから直接福島入りせず、一旦つくばヘリポートでの給油を兼ねて、情報収集してから最終目的地を決定することとなりました。

(当初、福岡を出る時の私達の参集場所は、宮城県総合運動公園でした)

つくばヘリポートでの給油時に得られた情報から、福島県立医大には放射能の影響が無いことが解ったため、福島県立医科大学を目指す事となりました。

筑波離陸後は、宇都宮市、郡山市を経由し、1313:15に福島県立医大に到着しました。

着陸後直ぐに、医療スタッフは医大内に立ち上がっていた統括DMAT及び、ドクターヘリ統括責任者の下に、到着の報告と今後の活動について、

情報収集に行きましたが、震災、津波によりズタズタになったインフラ、殆ど機能しないあらゆる通信手段等の悪条件により、

統括本部も情報収集に苦慮していた様で、中々活動指示が降りてきませんでした。

暫くの待機の後我々に降りた指示は、孤立状態となっている石巻市立病院へ発電機を搬送し、そこから花巻市へ患者搬送すると言うものでしたが、

同じ頃、女川原発から放射能漏れの情報が入ったので(後に誤情報と判明)、発電機の搬送は仙台市にある宮城野原運動公園まで運び、

そこで新たな指示を待つこととなりました。

結局、その日は日没まで新たな指示は無く、福島医大に戻りパークすることとなりました。

この時は、大規模災害下であり、超法規的措置により日没後の場外離着陸が不問とされ、

我々が医大のグラウンドに着陸したのは、薄暮をとっくに過ぎた頃でした。

福島医大参集の全てのドクターヘリが戻り、飛行後点検等片付けが終了し全員が揃った所で、

統括本部にてデブリーフィングが行われ、その日は解散となりました。

当日の宿泊先は決まっておらず、FDが医大病院の一室を間借りする調整を付けてくれていましたが、なんと山口県のドクターヘリで来ていた整備士が、

私の専門学校時代の友人であり、彼らは当日営業再開した福島市内のビジネスホテルに泊まるとの有力情報を貰えたので、

有難い事に私達もそのホテルを確保することが出来ました。但し、ライフラインはほぼ途絶えた状態でした。

久留米から持って来た2日目のコンビニ弁当で夕食を取りつつ、チームミーティングし、その晩はベッドに潜り込みました。

久留米出発から3日目の14日、早朝に医大病院に向かい、日の出を迎え明るくなる頃には、飛び上る準備を済ませました。

医療スタッフは統括本部にて情報収集及び、7:00からのブリーフィングにより、活動指示を受けました。

福島医大参集のDMATヘリ部隊に下りたミッションは、石巻市立病院での活動でした。

同病院は、北上川河口の石巻港の直ぐ横に位置しており、津波被害をモロに受けていました。

全てのライフライン、携帯回線は壊滅し、アクセス道路や橋も、損壊、水没しており、文字通り陸の孤島となっていました。

ここで我々に与えられた目的は、同病院から5分程度内陸地へ飛行した所にある、石巻総合運動公園に設置されたSCUまで、

孤立した患者さんを搬出し、分散、広域搬送の後方部隊へ引き継ぐことでした。

出発前に、チームでの最終ミーティングを行い、意識の統一を図りました。

 114日当日の天候が、午後から崩れる予報であり、活動を継続すると離脱のタイミングを逃し、足止めを食らう恐れがある。

 2. 石巻市立病院での現場活動では、チームメンバーがバラバラになって行動する可能性がある。

 3. 福岡の基地病院でのドクターヘリ事業は、予備機の投入で継続出来ていたが、長期間本機が留守にすることはできない。

 4. DMATの主目的は、発災直後から急性期における、医療支援活動であること。(72時間ルール)

これらの条件を考慮し、この日の現場での活動は午前中一杯とし、正午にはヘリに集合し、メンバー全員揃って帰投するデッドラインを決めました。

そして、8:00過ぎには福島医大を離陸し、石巻市立病院へ向かいましたが、

その経路上で目にしたのは、津波の爪痕によって大きく様変わりした凄惨な光景でした。

思わず体中に鳥肌が立ち、恐怖に襲われました。

海岸からかなりの陸地まで浸水しており、又、所々では火災も発生し、大きな煙が上がっていました。

前日までのフライトでは、比較的内陸側を飛行したので、そこまでの被害は認識していませんでした。

市立病院到着後、病院の駐車場であったであろう場所に十分なスペースがあったので、離着陸可能と判断し1番機として着陸しました。

病院建物周辺に、合計4機が同時に降りました。

患者さんの搬出まで結構時間があったので、病院周辺を見て回りましたが、それはそれは悲惨な状況でした。

搬出準備が整い、各機順次搬送して行く中、我々も1回の搬送を担いました。

然しながら、当時のほぼ不確実な通信状態等の要因もあり、情報不足、錯綜で各拠点は非常に混乱しており、正確な判断が出来ない様でした。

そのため、私達も石巻総合運動公園に足止めを食らったり、角田中央公園に設定された燃料補給前線基地(物凄い数のヘリが次々と離着陸していました)に

給油に立ち寄ったりで、再び市民病院に戻ったのは正午過ぎでした。

その後追加の搬送出来ず、チームメンバーが全員揃ったところで13時頃撤退となりました。

市立病院離陸後、一旦自衛隊霞目駐屯地に立ち寄りましたが、追加のニーズも無く、福島医大へ戻り、

資機材のピックアップとドクターヘリ統括本部に、帰投する旨の挨拶を済ませ、15:35に離陸し福島医大を後にしました。

16:35つくばヘリポートに着陸し、飛行後点検の後、ホテル入りとなりました。

ホテルは断水していましたが電気は復旧しており、周辺の飲食店も営業再開していたので、

反省会を兼ねて近くの居酒屋で夕食を取り、今回初めて温かい食事にありつく事が出来ました。

活動最終日の15日、9時過ぎにつくばヘリポートを出発しました。

静岡ヘリポート、津ヘリポート、高松空港で給油し、16時頃には久留米大学病院に帰着の予定でしたが、

この日、一日を通して強い向い風を受け、高松からはダイレクトで久留米に着くはずでしたが、北九州空港での給油を余儀なくされました。

結局久留米大学に着陸したのは、日没近く薄暗くなってからでした。

病院屋上ヘリポートでは、いつものドクターヘリ関係者ばかりではなく、多くの他部署からの病院スタッフが出迎えに来られていたので、びっくりしました。

エンジン停止後直ぐに、待機されていた病院の放射線科と放射線同位元素施設の先生方により、チームメンバー全員と、

ヘリの機体内外、資機材、個人の荷物等、全てについて順次スクリーニング検査が行われ、

人員については測定値に問題はなかったので、皆さんとの接触が許されました。

日常点検で使用したウエス、ネル及び、何故か私の私物のスニーカーが異常値を示し、即時没収となりました。(スニーカーは、後日戻って来ました)

最後に、この度我々の災害支援活動は4日間でしたが、被災地での活動は実質1日程度で、あまり役に立たなかったのではと悔やまれます。

これは、地理的に今回参集したドクターヘリの中で最も遠方からの参加で、空輸に1日を費やしてしまったためであり、

現実的ではなかったのではと思うところですが(今ではこれを教訓に300㎞ルールがあります)、

ドクターヘリの全国展開が広がりつつある中で起こった、国を揺るがす様な未曾有の大規模災害に対し、

久留米大学病院としては是非とも参加されたかったのだと思います。

また、被災地では、これだけの規模の災害だと通信網がほぼ機能せず、情報収集が非常に困難であり、有効な活動が難しかったと痛感しました。

津波で被災した仙台空港

熊本地震(2016年4月14日・16日)

2016414日(木)2126分(前震)及び416日(土)125分(本震)に発生した、

いずれも熊本県熊本地方を震源とする最大震度7の地震は、多数の方々が死傷される甚大な被害をもたらした。

当社は、地震発生直後から深夜及び早朝からの報道、九地整の対応をはじめとして、翌日からの送電線巡視及びドクターヘリ対応を実施した。

(1)主な対応状況及び特記事項

・報道ヘリは、414日の22時から24時の間で4機が福岡空港から熊本へ夜間出動した。また、翌15日早朝5時から7機が出動した。

・福岡空港長の判断で22時以降の飛行許可が出されたため、当社は報道対応を主体にオールナイトで運航対応を実施した。

・報道ヘリは各キー局からも応援機が来て、2機ないし3機で交代して取材した。

・送電線パトロールを翌15日朝8時から熊本電力センター管内で実施した。

 更に、16125分の本震以降、再度、熊本、大分、宮崎電力センター管内で実施した。

・九州電力()の熊本支社へ弁当を16日(450個)、17日(500個)の両日、空輸した。

・ドクターヘリはDMAT(災害派遣医療チーム)の指令により、

 本震のあった16日に、熊本機9回(3時間55分)、福岡機2回(2時間46分)、佐賀機2回(1時間22分)、

 宮崎機2回(2時間46分)、熊本県内で活動した。

・当社鏡ヘリポート(八代)は3機が使用可能で、燃料補給基地として活躍した。

 なお、15日の福岡から鏡までの燃料輸送に約6時間を要した。

・熊本県ドクターヘリ基地の格納庫の一部が損壊したが、機体の損傷は免れた。

・熊本県ドクターヘリ基地の当社社員の食料及び水を18日に空輸した。

・南阿蘇の送電線鉄塔復旧工事のヘリ延線工事を実施した。(23日~25日)

(2)飛行時間

 寄稿文

  危機管理を実感させられた熊本地震

企画総務部 田中 稔泰

2016414日午後926分 会社から帰宅したばかりの私のスマートホンの緊急地震速報音が激しく鳴り響き、時間を置かず、激しい揺れが襲ってきました。

テレビの速報で熊本県を震度7の地震が襲ったことを知り、すぐに会社に向かいました。

当社の「危機管理規程」では「運航業務区域内において震度5弱以上の地震災害が発生した場合、危機管理対策組織のメンバーは自動出社するものとする」

となっています。1020分会社に到着し、各執務室の被害状況を確認したところ壁には無数の大きなひびがあり、地震の大きさを物語っていました。

私は福岡空港内にあった板付基地に行き、従業員の安否確認・被害状況確認を行い熊本県ドクターヘリスタッフが無事でありホッとしたことを思い出します。

翌朝、一旦始発電車で帰宅し、午前8時過ぎに再度出社してその後の情報収集を行いました。

2日後、416日午前125分 就寝中、またもスマートホンの緊急地震速報音が激しく鳴り響き、414日よりもさらに激しい揺れが長く襲いました。

そして、熊本県を二度目の大きな地震が襲ったことを知りました。

出社のために都市高速道路を利用しようとしましたが、地震のため封鎖されており、一般道を通って出社しました。

その日、私は午前4時から営業部執務室で、1人でD-MATや九州電力様などの関係各機関から電話による営業関連、飛行関連の確認や質問に対応しましたが、

的確な回答ができずお叱りやクレームを受けたことを覚えています。

翌日からは、熊本ドクターヘリから水と食料等の手配要請があり、慌てて、水と食料の手配を行うよう指示しましたが、福岡市内のスーパー、コンビニでは

既に品切れ状態、また、従業員の居住地も品薄状態の中で、購入には非常に苦慮しました。

それでもスーパー、コンビニをまわり続け、何とか有るだけの水と食料を確保し、418日(月)早朝に当社ヘリで熊本に空輸できました。

この熊本地震がきっかけとなって、今では非常災害時の備蓄が当たり前となっていますが、当時はそのような考え方が薄く、対応にはたいへん苦労した思い出があります。


  あの日見た阿蘇

運航部 飯沼 英史

その揺れは前触れもなく突然襲ってきた。当時私は送電線巡視で大分に宿泊していました。

早目に床についた瞬間、緊急地震速報のアラームで飛び起きました。

栃木育ちで地震には慣れている自分でも激しい横揺れにただ事でないことは容易に理解できました。

翌朝から鏡ヘリポートを拠点として緊急巡視に従事し、疲れから寝入っていると再度猛烈な揺れに見舞われました。日の出と同時に再度フライト開始。

しかし何かが変なのです。そしてそれは現実に。あるはずの阿蘇大橋が見当たらないのです。近づいて崩落した阿蘇大橋を眼前に見て言葉を失いました。

福岡に戻り翌日からRKB報道担当で阿蘇方面へ。巡視飛行とは違い高い高度から俯瞰することができるので阿蘇市の被災状況を手に取るように確認できます。

崩落した阿蘇大橋、地滑りで被災した別荘地、地割れが走っているゴルフ場、綺麗な山体を見せていた米塚も亀裂が入り、

あまりの非現実的な光景に言葉も出なかったことを覚えています。

当時、阿蘇上空には報道各社、防災航空隊、県警ヘリコプター、ドクターヘリ、自衛隊等、多い時は十数機が飛行しまるで空中戦のようでした。

その隙を縫いながら生中継に適した場所に陣取りオンエアのカウントダウン開始。

汗だくになりながら操縦桿とラダーペダルを細かく操作し、我慢のフライトとなりました。

連日行方不明者の捜索現場や、阿蘇市の被災状況、崩壊した熊本城の石垣や脱線した九州新幹線の取材フライトに従事し、

精神的にも体力的にもきつかったのですが悪い事ばかりでもなく、担当最終日にJNN取材団で見えられていた

TBSアナウンサーの加藤シルビアさんを乗せての生中継フライト後に機体の前で記念撮影をして、2人に直筆のサインを頂いたことは

疲れを忘れるほど良い思い出となった事はいうまでもありません。

九州北部豪雨(2017年7月5日・6日)

201775日(水)から6日(木)にかけ、対馬海峡付近に停滞した梅雨前線に向かって暖かく非常に湿った空気が流れ込んだ影響等により、

線状降水帯が形成・維持され、同じ場所に猛烈な雨を継続して降らせたことから、九州北部地方で記録的な大雨となった。

九州北部地方では、75日から6日までの総降水量が多いところで500mmを超え、7月の月降水量平年値を超える大雨となったところがあった。

また、福岡県朝倉市や大分県日田市等で24時間降水量の値が観測史上1位の値を更新するなど、これまでの観測記録を更新する大雨となった。

この記録的な大雨により、福岡県、大分県の両県では、死者37名、行方不明者4名の人的被害の他、

多くの家屋の全半壊や床上浸水 など、甚大な被害が発生した。

加えて、水道、電気等のライフラインの他、道路や鉄道、地域の基幹産業である農林業にも甚大な被害が生じた。

また、発災直後には2,000名を超える方々が避難生活を送ることになった。

当社は、天候が回復し始めた6日から、九州地方整備局や報道取材ヘリが飛び出し被害の状況を映し出した。

電力事業においても、臨時の送電線点検がすぐに開始され、また現地への陸路が遮断されていたため

ライフラインの復旧が早急に開始できなかったことから、臨時ヘリポートを設定し九州電力社員の方や物資を輸送することを約1週間続けた。


(1)主な対応状況及び特記事項

・送電線巡視パトロールは76日より、久留米、日田地区及び熊本地区を実施した。

・送電鉄塔が被災し、公道寸断により現場到着まで時間を要したことから、

 早急な地すべり状況調査のための作業員(延べ52名)及び資機材をヘリコプターで輸送した。

81日より、被害を受けた送電鉄塔の仮復旧のための、資機材の輸送(約19時間)を実施した。

76日早朝(午前4時~)航空局より朝倉、日田付近の空域についてノータム(航空情報)が出されたため、

 操縦士に情報提供を行い、安全運航に努めた。


(2)  飛行時間

口永良部(2015年5月29日)・阿蘇山(2015年9月14日)・霧島新燃岳(2011年1月19日、2月1日)などの噴火災害対応

九州地方には阿蘇、雲仙、霧島、桜島ほか多数の活火山が存在する。過去にも1914年桜島大噴火、1990年雲仙岳平成大噴火ほか大災害を

もたらしたもの以外にも大小様々な火山活動が見られる。2003年以降の主な噴火災害対応については以下のとおりである。

 ・口永良部島噴火:2015529日、爆発的な噴火が発生。噴火警戒レベル5(避難)となり火砕流も発生。全島避難となった。

 ・阿蘇山噴火:2015914日、噴火警戒レベル3(入山規制)。火口より北西側に降灰。また、小規模火砕流発生。

 ・霧島新燃岳噴火:2011119日、小規模噴火後、127日爆発的噴火発生。噴火警戒レベル3(入山規制)。

  火山の東側に大量の降灰及び噴石があり被害発生。

 これらの火山噴火において、当社の主な対応状況及び特記事項は次のとおりである。

・報道を始め災害復旧等ではヘリが活躍することが多くなる。豪雨や台風では予め予測ができるため心の準備ができ、計画を立てられることもある。

 しかし、火山噴火(火山性地震等の観測はあるが)は突然発生することが多く「着の身着のまま」出発することになる。テレビ画面に災害の

 テロップが表示されると同時に取材要請となり、またテレビ局スタッフと宿泊先で「日用品買い出し」が必要になることも多い。

・火山噴火取材は、噴火規模や風向(各高度含む)によりヘリ機材への影響を考慮して、

 ベース(燃料補給)となる空港又はヘリポート(重量的に厳しい場合もある)を選択するが、降灰距離見積もりが困難なので撮影時間が短くなりがちである。

 新燃岳の場合はかなり火山灰量が多く、気を遣うものとなった。

・阿蘇山の場合も熊本空港は降灰の可能性から鏡ベースとしたが、夕方中継では日没後の離着陸も想定され熊本空港を選択した。

・口永良部は離島であり島民避難の関連から燃料がある近隣種子島空港は公共ヘリ優先になり、鹿児島空港のプライベートエプロンを使用することになったが、

 幸い鹿児島在局の協力で他社航空会社の事務所も利用でき拠点体制があり助かった。

・災害では当然生中継も行われることになる。阿蘇山や新燃岳では受局アンテナが近隣にあるため容易に伝送できることが多いが、

 口永良部では当初8000ftまで上昇しても伝送がうまくいかず、また時期的に梅雨前線の影響で高度が取れないことが想定され、

 屋久島に地上中継車を入れ込み、飛行するヘリを地上アンテナで捕まえる方法も取られ、なんとか中継できた。

・突発的で数日に及ぶと終わりが見えないため、目の前の飛行を一つずつ終わらせていくような感じで、

 朝から夕方までニュースの時間と天気の確認や調整等に追われる。

・災害時にはいろいろなものの制限を受けるが、特に係留を含めた場外離着陸場、燃料、宿泊先等の展開力が会社には必要とされる。

 頻度やコスト面を考慮すると普段からの準備は厳しいが、今後大規模地震も予想され、災害復旧を含めて広範囲な展開力が必要になると思われる。

 「足の長い」ヘリなら若干の余裕があるが、広範囲をカバーするには相応の運航支援体制が必要である。