近年の当社を取り巻くヘリコプター業界については、ドクターヘリや災害救助活動等において、人命救助に係るヘリコプターの役割が認知され、
その期待が一段と高まっている中で、より一層の安全管理と取組みの強化が求められるようになり、
消防防災ヘリコプターの運航では2022年度から操縦士2名搭乗での運航が義務化されるようになった。
安全について振り返ると、当社では、1991年から現在までの32年間、ヘリ搭乗者の死傷事故ゼロを継続しており、
これはお客様に対する絶対的使命としての「安全運航」が会社運営の基盤であること、「基本事項の徹底と再確認」、
「操縦技術の更なる高度化と均質化」などのリスクマネジメントによる予防整備を行うことで継続できるものである。
また、有人ヘリコプターに限らずドローンの需要が高まり、空飛ぶクルマなどの官民挙げて導入に向けての動きがある中で、
大型資材輸送、高精度静止画カメラの活用など有人ヘリコプターの特性が存分に発揮できるフィールドでの活躍と保有する整備施設、
人財を最大限に活用しながら社業の発展に努めていく。
主なトピックスを以下にまとめた。
(1)セスナ事業
当社の固定翼の歴史は、雁の巣飛行場(跡地:雁の巣レクリエーションセンター、奈多ヘリポート)[写真①]で
ビーチクラフトC35ボナンザから始まり、1957年からはセスナ172が導入され、1975年にセスナ206が追加、
最盛期にはC172が1機、C206が2機所有するまでになった。[写真②]
C206を使った航空測量では、胴体下部に穴を開けて航空測量用の高精度なカメラを真下が映るように取り付け撮影して地図を作成していく。
測量エリアは九州内が多かったが、時には東は関西エリアから南は沖縄方面まで飛行することもあった。
撮影には天候が大事で撮影範囲に雲や雲影が映るとNGであるため、天候回復まで地上待機することもしばしば。
撮影時間帯もビル影が長くなると撮影不向きなため、冬場などは特に撮影時間帯も考慮しなくてはならない。
快晴に近い天候の日は、1フライト4時間以上は当たり前で、飛行前の飛行計画、空域調整は非常に大変であった。
撮影高度は低高度(600m)から酸素を吸いながら実施する高々度飛行(3000m~5000m)と幅広く、
管制機関とのコミュニケーションは重要になる。
C172では一般撮影(建物などを斜め撮影、人文字など)が主であったが、時には報道取材で災害現場へ向かうこともあった。
その後、セスナ事業は収支状況の悪化に伴い、2006年3月末をもって事業から撤退することになった。[写真③]
① 雁の巣飛行場跡地格納庫
② C206型JA3868
③ C206型JA3730
(2)薬剤散布
当社の薬剤散布は創業2年目の1954年8月から、6月末に購入したばかりのヘリコプター第1号機・ヒラーUH-12B型機を使って、
国有林へ散布したのがスタートであり、これは我が国における最初の本格的な防除作業であった。
一方、我が国の水稲への実用的な航空防除は1958年8月にスタートし、当社は1961年に参入した。
その後、航空防除が技術・経済的効果から急速に発展し、当社は主事業として取組み、
最盛期の1977年度は12機体制で臨み、散布実施面積は記録的な104,458haとなった。
1985年以降、住宅と農地の混在、都市化が進み、農薬散布の批判も一段と高まり、実施が困難となる地方は増加の一途をたどった。
当社も需要の開拓に遠く富山県、茨木県、埼玉県、長野県、石川県の水稲防除まで遠征を重ねたが、全国的な農林航空防除の減少には抗しきれず、
2012年度以降、収支の悪化や要員関係により薬剤散布事業から撤退した。
農薬散布(当時は当社のヘリコプター操縦士が初めて1人で行う営業飛行だった)は、ヘリコプターから松林や水田に薬剤を散布する業務。
害虫が活発化するシーズンの業務のため、5月から始まり8月末まで実施していた。
液状の薬を散布するが、日が昇って気温が上がると、上昇気流によって細かい粒子の薬剤が落下しなくなるため、
上昇気流が出始めるまでには仕事を終わらせる必要があった。
そのため、日の出と同時に作業開始できるよう準備していた。
(関東での散布もあったが、日の出時刻が早いので、午前3時起きということもあった)
業務の流れは、前日に仕事先に移動して発注元の担当者と打合せ後、散布エリアを車で見て回り、
危険箇所の確認などをしていたが、発注元の担当者次第で確認できる危険箇所が網羅されていないこともあったため、
障害となるような支線等の存在を予測する能力も必要だった。
作業飛行は、対地高度10~15m(ほぼ電柱と同高度)、速度約35kt(時速約65km/h)、散布幅は27m間隔。
35ktの速度で通常の旋回をすると、旋回半径は27mをオーバーするため、速度を落としても安全に旋回できるように、
Pターン(パラボラターン)と呼ばれるアクロバットのような旋回をする必要があった。
また、超低高度でPターンを連続で行いながら、危被害箇所を避け、通学時間帯と仕事時間が重なるため
学生に薬がかからないようにする等見張り業務を同時にしていた。
しかし、情報量が多く結果的に全国で墜落事故が多発するような業務だった(当社でも死亡事故等が発生)。
線状障害物に引っかかる事が主な要因だが、地上から空を見上げると視認も難しくないが、
空から地上を見ても背景に溶け込み視認することが困難だった。
2機編隊で福岡空港に着陸する散布機
鹿児島県松くい虫散布(JA9080)
鹿児島県水稲散布(JA9149)
鹿児島空港には南九州の拠点として出張所を構えていた。
1985年6月にNHK報道待機開始とともに開設し、NHK報道業務のほか、九州電力の送電線巡視業務、
台風災害対応、薬剤散布などの南九州の拠点として利用されていた。
1993年5月にはNHK報道待機業務が終了し、その後2000年5月に出張所も撤退した。
2002年12月に、旧エースヘリコプターから業務を引き継いだことに伴い、鹿児島運航所として開設された。
業務内容は、南九州をカバーするTV朝日系(KKB、UMK、KAB)、TBS系(MBC、MRT)の報道業務を2機のAS350Bで待機していた。
その後、報道機の性能向上、中継機器装備等の理由により、福岡の報道機が全九州をカバーするようになり、
2009年3月にはTV朝日系、2013年3月にTBS系の報道待機業務が終了したことから、運航所も閉鎖された。
これまでの整備修理事業はお客様からの要望でその都度実施してきたが、近年お客様の問合せも多くいただくようになったことから、
今後の事業の柱の一つとなるよう整備体制を整えてきており、奈多ヘリポート移転後からは警察機などの受託整備を積極的に取り組んでいる。
これまでの整備修理事業の主な実績は下記の通り。
・2004年及び2006年に東北エアサービス㈱よりヒューズ500やAS355F2の耐空検査合計2機を受託。
・2004年から5年間に渡り宮崎県消防防災機ベル412EPの運航に伴い耐空検査や修理改造作業合計6件実施。
・2005年及び2006年には和歌山県警機BK117B-2(JA6808)の耐空検査作業を受託し民間機以外初の受託整備となった。
・2010年以降九州地方整備局のベル412EPの運航委託を朝日航洋㈱から引継ぎ耐空検査や修理改造作業を行っていたが、
2020年に機体更新に伴ってレオナルドAW139の受託整備へと移行。
・2013年地域医療振興協会(NIMAS)機の受託運航に伴い耐空検査作業を2019年まで行い、その後この機体を購入し現在保有中。
・2018年山口県が消防防災機更新のためAW169を導入、当社が輸入新規組立を行った。
レオナルド式AW169型の日本国内導入は3機目であった。
防災ヘリとして受託運航および耐空検査及び修理改造検査を毎年当社で実施。
・2021年警察庁の警察無線機更新を全国的に実施することとなり、
当社は長崎県、福岡県、新潟県の3機修理改造検査作業を修理改造会社から受託した。
また、長崎県及び栃木県の警察ヘリTVシステムの修理改造作業も2機受託。
・2022年以降、長崎県警、栃木県警、石川県警などのベル429を毎年数機受託。
・2023年2月、当社のAW169の輸入新規組立としては2機目となる日本テレビ、読売新聞社共同運航機AW169の輸入新規組立を実施。
奈多基地整備棟の様子
AW169の導入について
整備部 児玉 憲治
2018年4月、突然、降ってわいたようなレオナルド式AW169型の新規組立作業の話がありました。
しかも、国内初の防災機仕様への修理改造作業も含まれていました。
当然ながら詳細な作業の内容など現場に直接、耳に入ることはないため日々、耳をダンボのようにして社内外から情報を集めました。
イタリア製のヘリを導入することは無いだろうと、高をくくっていたところ、
機体の視察や整備士、操縦士の訓練などトントン拍子に計画が進みとうとう新規組立をすることになりました。
全てが初めてづくしで、機体に使う特殊工具、エンジンスタンドなどの地上器材は無い、
マニュアルは電子媒体で閲覧する「HUMS」、「TQ」、「IETP」、「AMMC」… ??訳の分からない略語ばかり。
また、受託整備の経験がほとんど無いことから顧客説明用の書類作成に四苦八苦。
そして、当時は国内販売実績が少ない機種であったことから機体整備に関する情報もなかなか集まりませんでした。
国内技術員もまだまだ、これから育成するという時期でありちょっとした疑問も解決するのに時間がかかる状況でした。
そのような悩み多き日々を経験することで、改めて計画や人との繋がりの大事さに気づかされました。
新規事業には勢いも必要ですが、人、物、体制を整えてから実行していく。
また、組織的なバックアップ体制を整えておく事が必要だと思いました。
それから困った時には社内外の人から多くの助けを頂きました。特にT社、A社のAW169担当者には惜しみないアドバイスを頂きました。
外注委託先も無いことから社内の諸先輩方には、色々な角度から考え知恵を絞り、新たな受託先を開拓することができました。
そうして、多くのを皆様のご協力の下、AW169を国内初の山口県消防防災ヘリコプターとしてリリースすることができました。
初めての事は何事も大変です。やり抜くには覚悟や意思が必要です。
産みの苦しみの先に未来があると信じています。皆さんもぜひ新しい事へチャレンジしていってください。
そして、そんなチャレンジに気づいた周りの皆さんは是非、サポートを!!
AW169の安全運航と発展を願って。
組み立て中のJA35AR(ヴェルジャーテにて)
イタリア、レオナルド・ヘリコプターズ(株)ヴェルジャーテ組立工場正門
私が入社したのは2009年4月
整備部 安永 雄一
西空はそれまで約10年間、新卒採用をしていなかった空白の期間がありました。
約10年ぶりの新卒として入社出来たわけですが、今思えば非常に苦しい新人時代だったように思います。
年の近い方でも10歳年上、「先輩!」なんて気軽に呼べる年の差ではなく、相談しようにも新卒からしたら皆さん大ベテランで声も掛けづらい、
相談といえば1人の同期と傷の舐め合い程度、このような感じだったでしょうか。
それから整備部はほぼ毎年2、3人新卒採用し今では若手で活気づいて、内心「いいなぁ」なんて思うこともありますが
その反面、約10年間新卒を待ち続けた某「先輩」には尊敬の念です。
入社から現在に至るまで、物輸、緑化、巡視、報道、NIMAS、ドクターヘリ、作業責任者、確認主任者等、
ありがたいことにさまざまな仕事に従事させてもらってますが、中でもインパクトに残っている仕事は物輸のような気がします。
Bell412、富士ベル204がフル稼働で3カ月の試用期間終了後ほとんどが出張生活、
運航部や営業部の方々とも初めましての中、新人として緊張しっぱなしだったからです。
最初は緊張して気が張り詰めてミスしないように必死にやるわけですが、ある程度慣れてきたころにやらかしてしまいました。
高千穂での物輸11泊の初日、412の機体カバーをかけ終えた直後に風防を豪快に割ってしまったのです。
割ったときの手の感触、皆の視線、今でも鮮明に覚えています。
もちろん、次の日の仕事は一旦中止。消えてしまいたい一心だったわけですが、
営業、操縦士、整備士の機体復旧・現場での動きは申し訳なさと同時に「凄いな」と、プロの仕事を見せてもらった気がしました。
その他にも灯台で1人荷受けをしたり・・、思い出せばたくさんあります。
西空での整備士としてここから始まるんだな。と思ったのが物輸でした。
物輸をはじめ入社してしばらくは整備の基礎をいろいろと教えて頂きました。
現在の仕事でも共通する部分であり、思い返すことが多くあります。
私が教わってきたことを教えられる、そんな「プロ」になりたいものです。
何事も経験が大事
整備部 福永 眞歩
久留米のドクターヘリで働きたい!その思いで私は西空の採用試験を受けました。
特に深く考えていなかった私は、入社日の前日になって男性ばかりの職場に女一人でやっていけるのか、
運航整備や点検整備などの実務をやらせてもらえるのか急に不安になり行きたくなくなったのをよく覚えています。
入社1年目はほぼ記憶がありませんが、実際に実務に従事してみると何をやるにも力が必要でこれ向いてないと思うことが多々ありました。
AS350のメインローターヘッドの組み立てを行う際にトルクをかける作業では、約1800IN・LBSと大きな値で1mくらいのトルクレンチで
自分の全体重をかけても規定値がかからず汗だくになりました。
2年目の夏からは送電線パトロールの業務に出始めました。
九州内のいろんなご当地の物を食べたり、1人で機体を持っていったりと良い経験ができたと思います。
場外での燃料給油は基本的にドラム缶から行います。
そのドラム缶は横に倒れているので起こさなければいけませんが約160㎏。どう頑張っても10㎝しか上がりませんでした。
毎度パイロットの方に手伝ってもらうことに申し訳ない気持ちになり、他の整備士だったら手を煩わせることもないだろうに、
パト業務には出ない方がいいのかもしれないと思いましたが、「一人でやる必要はないよ」とあるパイロットの方に言っていただき、
この先頼ることは女性である以上出てしまうだろうし感謝しつつ、図々しくなることにしました。
7年目になり、作業をするうえでのコツも掴みトルクをかけることなどに四苦八苦することもなくなりました。
何事も経験してみることが大事だということを学びました。
それでも力が足りず出来ないことも多々ありますが、周りに助けてもらいながら楽しく働くことができています。
70周年の節目で入社から振り返る機会を頂きました。まだ私の目標は達成できていませんが、
これから先の私の10年、20年先、西空の10年20年先、どんな変化があり、どう成長しているかとても楽しみです。
成長に繋がるよう日々努力していきます。
ドクターヘリの事業費については、2007年度まで約1億7,000万円で、国と道府県が半分ずつの負担をし合っていた。
国(厚生労働省)の助成は2分の1が原則であり、残りの道府県負担分の約8,500万円が財政的に道府県によるドクターヘリ導入のネックとなっていた。
2008年度からは新たに総務省が特別交付税で地方負担分の50%を交付する、という救済策を出した。
これにより道府県の費用負担は費用全体の4分の1となった。
さらに総務省は、2009年度からは地方負担分について、財政的に弱い道府県は、交付額を地方負担分の80%にまで引き上げた。
これによって、ドクターヘリ導入の動きは一気に加速した。事業会社の運航費用についても、
この措置に伴って当初の約1億5,000万円から1億9,000万円弱にまで引き上げられた。
これにより、総額は約2億1,000万円までになった。
ドクターヘリの年度別の導入数は、それまで2001年度から2010年度まで、
5力所、2力所、1力所、0カ所、2力所、1力所、3力所、4力所、4力所、4カ所と推移してきたが、
ドクターヘリ導入を検討する道府県は大幅に増加した。
九州各県でもドクターヘリ導入の機運が高まり、熊本県、大分県、宮崎県と相次いで導入を決めた。
これに対応すべく、当社でも2010年、2011年の社長年頭の辞でも積極的に取り組むとしている。
各県とも運航開始が2011年度、2012年度に集中し、営業は受注に向けた活動、
現場は人員の確保などの対応に追われたが、何とか受注することができ運航開始にこぎつけた。
さらに、2013年度には佐賀県ドクターヘリも受注し、使用するベル429型機の組立作業も当社で行われた。
九州各県に拡大した記録を以下に記す。
(1)福岡県
・2002年2月1日より福岡県ドクターヘリ運航開始
・2002年2月1日~ 筑後川河川敷
キャンピングカーを置いて操縦士、整備士は待機
CSにあっては、久留米大学病院高度救命センター2階で待機
・2003年12月9日~ 久留米大学病院グラウンド
大学グラウンド横にある倉庫で操縦士、整備士、CS待機
・2010年10月28日~現在
久留米大学病院本館15階 屋上ヘリポート
久留米大学病院本館15階 ドクターヘリ運航センターで待機
(2)熊本県
・2012年1月16日より熊本県ドクターヘリ運航開始
・2012年1月16日~現在
熊本赤十字病院立体駐車場5階 屋上ヘリポート
熊本赤十字病院立体駐車場5階 運航管理室で待機
(3)宮崎県
・2012年4月18日より宮崎県ドクターヘリ運航開始
・2012年4月18日~東側ヘリポート
東側事務所で操縦士、整備士は待機
CSは、救命センター1階処置室隣の倉庫で待機
・2013年3月1日~ 現在 救急棟
高度救命救急センターHP棟5階 屋上ヘリポート
高度救命救急センターHP棟3階 ドクターヘリ運航管理室で待機
(4)大分県
・2012年10月1日より大分県ドクターヘリ運航開始
高度救命救急センター病棟4階で待機
・2015年12月31日~ 現在
高度救命救急センター棟屋上ヘリポート
高度救命救急センター棟6階で待機
(5)佐賀県
・2014年1月17日より佐賀県ドクターヘリ運航開始
・2014年1月17日~現在 救命センター
救命センター7階屋上ヘリポート
救命センター1階 運航管理室で待機
久留米大学病院DH(ドクターヘリ)運航センター
運航部 郡山 博信
2006年2月に全国で5番目にドクターヘリの運航を開始した久留米大学病院ですが、運航当初は筑後川の河川敷で待機していました。
当時のDH運航センターは、救命センターの資料室に設置され窓も無く一度部屋に入ってしまうと外が明るいのか?暗いのか?晴れているのか?
雨が降っているのか?さえ全くわからない状態でした。
そこで当時のDH統括責任者の坂本教授にヘリコプターが出動して必ず帰投する場所が目視で全く天気を確認出来ない事は
安全運航を継続出来ないと相談し、窓のある部屋へDH運航センターを移して頂きました。
2010年10月に15階建ての新病棟が完成、当時は病院屋上ヘリポートで燃料補給が出来、格納庫を有しているDH基地は全国初でした。
新病棟にDH運航センターが移る際も他社が運航しているDH基地では、CSは救命センター内に待機し、
操縦士、整備士とは待機場所が別々なのが通常であるなか久留米大学病院では、CS、操縦士、整備士が同室に待機出来るようにして頂きました。
出動要請が入った際に、悪天候時にどこまで進出し、どれ位であれば現地滞在出来るなどの細かい確認は無線のやり取りでは厳しい中、
CSと操縦士が同室でいつでも天候について協議できる方が安全運航に繋がるとお願いし、
全国では稀なCSと操縦士、整備士が同室に待機出来るようにして頂きました。
その後、熊本県、大分県、宮崎県、そして佐賀県とDHヘムネット研修で各基地の統括責任者の方々が久留米大学病院に来られ
DH運航センターを見て頂けたお陰で西空が運航するDH基地は全て運航クルーが同室となる運航センター、運航管理室を設置して頂きました。
DHの安全運航に直結する気象が操縦士とCSが共有できることは大変ありがたい事と思えます。
来年で運航開始22年となる久留米大学病院DHですが、今後も引き続き無事故、安全運航を続けて行きたいと思います。
熊本県ドクターヘリについて
運航部 礒﨑 修次
熊本ドクターヘリは、2012年(平成24年)1月から運航開始して現在に至っています。
運航開始当初から、防災航空隊が救急活動に積極的(隊員に救命士配置等)に対応していたため
システム構築には他県と違った熊本型が採用されています。
熊本赤十字病院が基地病院ですが、基地病院以外に3病院が受入れ対応可能病院としてホットラインにも参加しています。
熊本地震の際にも分散して搬送できた他、受入れ担当地区の明確化でスムーズな流れができています。
熊本ドクターヘリの場合、山岳部は、阿蘇・球磨地方を抱え、沿岸部は天草地方を抱える等バラエティーに富んでいます。
これまで多種多様な要請があり、色々な経験ができました。
阿蘇方面であれば気候が良い時期だとバイク事故や野焼きでの火傷、天草方面は漁船での怪我等地域環境における特有の事故・怪我があります。
熊本県自体は高齢化の為、脳疾患・心疾患の患者さんも多く、西空の中でも出動件数が多い県となっています。
そして更に増加傾向ではあると感じています。
ドクターヘリ事業は、消防との良好な関係を保ちつつ、医療を要請元にスピーディかつスムーズに届ける業務なので、
窓口となるCSの業務は非常に重要と感じます。
消防の定期的な人事異動や防災航空隊の隊員の交代等その時その時で防災側の任務に対する考え方が微妙に変化することもあり、
対応の最前線として迅速・的確に関係者と意思疎通を図ることが必要です。
運航する操縦士・整備士も現場活動で患者及び家族へのプライバシー配慮等に対応することもあり気を抜けない場面も多々ありました。
今後もサービスの安定的な提供のため、色々な事象に対応可能な人材育成にも更なる努力が必要と感じます。
最後に、今後も大規模災害等に備えて西空70周年の企業力を現場で引続き発揮できたらと思います。
宮崎県ドクターヘリでの記憶に残るトピックス
運航部 中村 浩二
2012年4月に宮崎県ドクターヘリの運航が開始されました。これまで色々とあった中で記憶に残る2点ほど記載してみます。
① 交代してもまだまだ帰れないランデブーポイント調査
運航開始当初はランデブーポイントを増やす必要があり各消防から候補地の提案が次々に挙がってくる状況でした。
実際に出向いて現地調査の必要があり、今の様に勤務を交代者と昼で交代した後は
直ぐに帰途につくという訳には行かなかった事が思い出されます。
交代者は板付基地から社有車を運転して宮崎まで来て、ヘリの勤務が終わった側は車で翌日も含めて5~10か所程度を見て回り、
使用可否判断、測量、写真撮影を終わらせてその後福岡まで運転して帰るパターンが多かったと思います。
消防から挙がってくる候補地は旧〇〇小学校跡地の様な場所が多く、
持って行った地図には表記がすでに載っていなくてかなり迷った様な場所も多くありました。
10年前だったから出来たけど、先日60歳になった今の私にはこの勤務パターンは厳しいかも。
② エンジンスタート後にENG CHIP点灯してRP係留
串間市から高齢男性の意識障害で現場要請されて医師の診断後患者を機内に収容して
エンジンスタートさせたところENG CHIPの表示が点灯。
患者さんは救急車に戻して陸送となりました。
現場では脚立もなく何も出来ない内に日没となりその日は現地に係留せざるを得ない状況となり病院側には迷惑をおかけしました。
夜間の警備会社がなかなか見つからず当日の運航管理にも遅くまで捜してもらい苦労をかけました。
やっと見つかった業者は鹿屋から向かうとの事で到着は早くても午後8時過ぎということ。
季節は3月初めだったと思いますが、日没後の気温の低下が予想外でかなりの寒さの中を耐えて待ちました。
巡視や報道で準備なしに泊りになった事は何回もありますが
定期的に使うヘリポートや空港ではない所で帰れなくなってしまった時の大変さを痛感しました。
その後警備員さんが(電話があり近くまで来ているが詳しい場所はどこか?・・と聞かれたりしたのだと思うが
鹿児島弁のおじさんの言葉が理解出来ず説明も通じたか大いに不安状態継続のままでしたが)何とか到着してくれるまでの時間は本当に長かったです。
機体は翌日大学病院に戻り約2時間程度遅れて通常待機に復帰しています。
なお、ENG CHIPはヘア状の金属片1本を目視確認し除去、その後試運転で再点灯しないことを確認しました。
ドクターヘリ待機終了後の出来事
運航部 大門 賢一朗
大分ドクターヘリCSを担当して約5年が経ちました。
初めの頃はホットラインの呼び出し音に緊張しながらの勤務でしたが、現在では当日の医療スタッフと雑談したり、
私はよくカレーを作るのですが、昼食を共にしたりとリラックスして勤務しています。
医師や看護師の方々は体の事や救命措置の仕方、薬の効果など様々なことを教えてくれます。
特に救命措置に関しては非常に役立っています。そんな中、突然ことは起こりました。
待機終了後に徒歩で寮へ帰宅途中にバス停付近で走行中の軽自動車に呼び止められました。
道でも尋ねられると思いきや、助手席の女児を指さします。
どうしたのか覗き込むと、目がうつろで、ぐったりしていました。
母親にどうしたのか尋ねると、飴玉を詰まらせたとのことでした。
頭に浮かんだ事は窒息、時間がない、脳障害です。
女児を抱きかかえて、頭部を下に向けて胸のあたりを軽く圧迫しながら119番通報しました。
大学病院に近かった為に救急車を呼ぶより救命センター直入した方が医療行為は早くなるのではと考えましたが、
気が動転している母親に運転は無理だと判断して、とにかく窒息の解除を優先に実施しました。
以前、窒息の処置を教えてもらったことがあり、正しく実施できたかどうかわかりませんが、飴玉がポロって口から出てきた時は安堵しました。
その後救急隊が到着する頃には話せるようになり、もう大丈夫かなと安心しました。
救急隊に引き継いで、その後近隣の小児病院へ搬送されたそうです。
ドクターヘリの業務についていなかったらこのような考えや行動はできなかったと思います。
人の命を目の前にして、ドクターヘリ事業の有効性や大切さを実感できました。
今後も安全運航に努めて大分県の救急医療に寄与していかなければならないと思います。
佐賀県ドクターヘリについて
運航部 高崎 勝之
2014年1月17日に運航開始した佐賀県ドクターヘリは、当社が運航を受託して基地病院では最も後発となります。
機体は当社で唯一ベル429型を使用していますが、故障が少なく、とても良いヘリコプターと感じています。
運航開始以来、ドクターヘリ要請の年間平均件数は約530件。多い時では650件を超える年もあり、まずまず多い状況です。
また佐賀県内だけでなく、福岡県・長崎県との相互応援協定を結んでおり、両県への出動も度々あります。
運航開始当時は、消防機関との連絡が上手く行かなかったことや、地域住民の方から騒音苦情を訴えられるなど
様々なトラブルがあったようですが、現在はドクターヘリの認知度も上がったお陰か、特に大きなトラブルは聞こえて来ません。
私自身、一昨年前から佐賀県ドクターヘリで操縦士又はCSとして勤務しています。
スタンバイ中は、佐賀・福岡・長崎のどこから要請が入るかわかりませんので、操縦士でもCSでも緊張の連続です。
そのようにピリピリとしそうな雰囲気の中でも、佐賀大学附属病院と医療センター好生館の皆さんは、
ヘリスタッフ以外の方々でも、私達へ非常にフレンドリーに接してくださるので心地良く、緊張を和らげて頂ける有難い環境だと感じています。
最近では機体準備のため格納庫へ向かう際、病院の玄関前におられる車いすに乗った患者さんから、
週に数回「行ってらっしゃい」と声掛けして頂けるようになりました。
現場救急の出動先でも、「有難うございます。よろしくお願いします。」と患者さんの周囲の方から御礼の言葉を頂き、
こんな自分でも誰かの役に立っているのだと実感出来る頻度を高く感じています。
このように自分もやりがいを感じられ、医療機関や患者さん等の役に立てる仕事・職場を後世に引継ぎつつ、
ずっと先まで継続運航して欲しいと願っております。
(1)尖閣諸島取材(2010年11月18日~23日、2012年8・9月、2013年8月(FBS)、2012年9月(TNC))
沖縄県の尖閣諸島については、我が国と近隣諸国間で領有権主張の食い違いが以前から存在した。
過去には台湾や香港の活動家が領有権主張して魚釣島に上陸したことや、未遂事件もあったが
国同士としては机上で睨み合いを続けているような状況であった。
そのような中、2010年9月に海上保安庁巡視船と中国漁船が衝突したことが引き金となり、諸問題が明らさまになった。
それ以降、中国の公船が接続水域(24海里内)へ定常的に入域したり、時々、領海(12海里内)へ入域するなどの問題が発生した。
日本としても、領海警備のため海上保安庁の船艇・航空機により中国公船への警戒を常時行っており、
一触即発の恐れもある現場での睨み合いへと変わってしまった。
前述の状況等を報道するため、契約頂いているテレビ局から取材飛行を要請されることがある。
2010年の海保巡視船との衝突事件や2012年に日本国として尖閣諸島のうちの主要島嶼を一般の方から購入(国有化)する頃までは、
取材機が駐機可能な空港または場外離着陸場の使用予約が取れ、併せて燃料の確保が出来れば、
通常の取材とほぼ同様の条件で飛行可否判断を行っていた。
具体的には、衝突事件後の11月にFBS機が当社では最初の尖閣諸島取材を行い、
その後2012年8月から9月にかけて複数局機が同取材を数回行っている。
その際の駐機や燃料補給箇所としては、鹿児島・種子島・奄美・那覇・宮古・石垣空港、中日本航空管理の石垣島内の場外離着陸場などを使用した。
しかしながら、日本が尖閣島嶼を国有化してからは中国の反日感情が更に増し、一時期はかなり緊迫した状態になったことから、
尖閣諸島での取材飛行等は国から強い自粛要請(指示)があり、
空域についても2013年に中国政府が防空識別圏(領空等確保のため防衛力を行使する空域)を尖閣諸島まで含めたもので公示した。
これらの状況から、現時点では尖閣諸島周辺での取材飛行等は安全が確保されないため出来なくなっている。
今後も尖閣諸島では上記理由から取材飛行を再開できる見込みは無さそうだが、領土問題が解消され、自由に飛行出来るようになって欲しいものである。
(2)カール・ビンソン取材(2017年4月29日)
2017年4月上旬、西太平洋を巡回中だった米海軍の原子力空母カール・ビンソンを中心とする空母打撃群は、
北朝鮮の弾道ミサイル計画に対する懸念が高まり、当初の予定を変更して朝鮮半島沖へ派遣されることになった。
同月12日、ドナルド・トランプ大統領が「非常に強力な艦隊を送り込んでいる」とした声明を発表。
15日、オーストラリア海軍との演習後、インドネシア・スンダ海峡を航行し本格的な行動を開始した。
23日から28日、海上自衛隊の護衛艦2隻、航空自衛隊のF-15J戦闘機などとの訓練を実施。
その後韓国軍と共同演習のために、九州西側から対馬付近を通過して、日本海に入り朝鮮半島沖まで進むと予想され、
報道各局からその姿を取材したいと要請が入った。
実際に運用中の米海軍のしかも空母を取材するのは初めての経験で、当然ながらその位置も取材可能なのかもわからず、
とりあえず、米軍や自衛隊など関係すると思われるところに連絡して情報の収集を行った。
報道各局も独自に情報を収集し、通過に備えて事前に対馬空港に機体を空輸したり、対馬や壱岐に地上班を配置するなどした。
結局29日、カール・ビンソンは平戸の西方海上から対馬と壱岐の間を通過して対馬東方海上に進出した。
当日は視程が悪く見通しは良くなかったが、報道各機はそれぞれカール・ビンソンを捉えて取材を行い、その姿をカメラに収めることができた。
結果として運用中の米海軍の原子力空母を報道機が取材するというひとつのトピックスとなった。
尖閣諸島取材(2010年11月18日~11月23日)
運航部 高崎 勝之
「お前は今から帰って、出張準備が出来たら沖縄に行け!」
脊振変電所付近で物輸機の燃料補給中に、機長から突然言い渡された言葉です。
頭の整理が全く出来ない状況で会社に電話確認してみたところ、FBS様のオーダーで尖閣諸島の取材が入り、
当社では初めて行くエリアなので案内役として同行する指示でした。
自宅に戻り、出張準備をしつつ嫁さんに「今から沖縄に行ってくる。いつ帰るか分からん。」と伝えたところ、
「え~!?、なんで??」と予想通りに返答されました。
このようなバタバタ状態で福岡空港へ行き、夕方の旅客機で沖縄へと出張が始まったのでした。
沖縄入りした私は次の日、那覇空港で福岡から飛来した取材機と合流し、石垣空港へ向かいました。
沖縄や尖閣諸島周辺飛行時の配慮事項などを機長さんと話しながら尖閣諸島へも飛行しましたが、
さすがベテラン機長さんは事前勉強をしっかりとされており、ほとんどアドバイスすることなく、私は心に余裕を持って同行することが出来ました。
石垣島では中日本航空さんの場外離着陸場を間借りしましたが、駐留の方から「その辺(ヘリすぐ横の草地)、ハブがおるから気を付けてね」
と言われて焦ったことが強く印象に残っています。
尖閣諸島では数日間に渡り、中国公船とそれを警戒する海保巡視船・島嶼・過去の構築物などの取材を行いました。
その中で日本テレビのキャスターさん同乗取材もありましたが、無事、目的達成出来た旨のお言葉をFBS様から頂いて心が温かくなりました。
現在、尖閣諸島周辺は国からの強い自粛要請があるため飛行出来ないようですが、
当社の活動範囲を八重山方面まで広げるきっかけに立ち会えたことを嬉しく思います。
カール・ビンソン取材記
運航部 佐藤 亮三
2017年4月、ドナルド・トランプ氏がアメリカの大統領に就任した数か月後、北朝鮮に空母を展開するという報道が突如リリースされた。
この報道受け、各報道デスクから操縦士の元へ、米軍空母の取材に関する問い合わせや依頼が続々と届いた。
当初情報が全く入手できず、どのエリアを航行するのか、そもそも安全に取材は可能なのか等
カメラマンや操縦士の我々も困惑し不安に駆られたのを覚えている。
その後次第に情報が入るようになり、不確かだが対馬沖を通過する可能性があるということが判明した。
今まで前例のない取材で、空域の調整や管制機関との通信設定方法、空母自体と直接コンタクトが可能かなど航空局や自衛隊等に連絡し、
各種調整に追われた。当時のアメリカは、北朝鮮と一触即発の状態で非常に高い緊張状態が続いていた。
派遣される空母等は打撃群と呼ばれ、ニミッツ級空母カール・ビンソン、誘導ミサイル駆逐艦2隻、誘導ミサイル巡洋艦が含まれることが後に分かった。
一部のメディアでは本当に戦争が始まってしまうのではないかとの憶測も飛び交っていた。
私が担当した報道局はヘリの取材だけではなく、壱岐と対馬に地上班を送り込んで、地上から航行中の空母を撮影しようと計画していた。
当時はそれぐらい緊迫した重大な事態であった。その後、難航した各種調整と飛行準備が整った。
空母はおそらく対馬と朝鮮半島の間を航行することが大方の見方だったので、通過する予定日の数日前に対馬空港へ空輸し、取材機会をうかがった。
ただ軍事情報なのでなかなか情報が入らず、対馬空港で待機する日が数日間続き操縦士、整備士は疲労が蓄積し始めていた。
クルーチェンジのために飛行機で何度か交代要員を送り込むことにもなった。
そんな中、あるところから空母が五島列島の西方沖を北上しているとの情報が入った。撮影に向かっても空振りの可能性があったが、
報道局の上層部と協議を行い取材に向かうことに決まった。いざ飛行を始めると想定より視程が良くなく、探しても探しても一向に見つからない。
時間ばかりが経過し残燃料も気になり始め少し焦りを感じていた。
そんな時、遥か遠くの洋上にぼんやりと霞んだ島が見えた。長崎県にある軍艦島のようなイメージだ。
次第に近づいていくと大きな貨物タンカーのように見えたため追跡を止めようかとも思ったが、
カメラマンと相談しながら、念のため確認することとなった。ただ肉眼では全く見えない。
カメラの機能をフルに使用し、最大限のズームで寄ってみると、まさにその空母カール・ビンソン一群が航行していた。
海上に広がった霞とズームによる画像の粗さから、機内のモニター越しに徐々に姿を現してくる空母は異様な雰囲気を醸し出し、
何か幻でも見てるかのような錯覚に陥った。
長い間、探し続けただけにカメラマンは絶叫し「おった!おったー!」と興奮気味で夢中で撮影を続けていた。
ただ空母からは無線で「keep away!」や「war condition!」など警告が繰り返し発せられ、
やはり戦争に近い緊迫した状態にあるのだと認識し、クルー間に緊張感が走った。
空母からは米軍の航空機が頻繁に離発着を繰り返しており、同じエリアには報道ヘリ、固定翼含め10機程度の航空機が飛行しており、
接近衝突しないよう細心の注意を払う必要もあった。
なんとか安全を確保しながら中継を実施し、私が担当していた局は取材の時間に生番組が放送されていたこともあり、
幸運にもヘリからの映像をいち早く中継することができた。
今回の中継は、地上から取材ができないことや事態の重大性から、
かなり長い時間生中継されることとなり、ヘリの特性が十分に生かされた取材となった。
無事、中継が終了し福岡空港に着陸した際は、クルー全員で業務を安全に完遂できたことに安堵すると共に、
大きな達成感を共有することができ、これまでにない非常に印象深い取材となった。
TNCを繋いで22年
運航部 花登 秀
テレビ西日本様(以下TNCとさせていただきます)が当社専用契約になったのは1981年(昭和56年)AS350B型ヘリでした。
1992年(平成4年)入社の私は専用契約41年内の22年をご一緒させていただいています。
TNC操縦士初飛行は2000年11月16日。AS350B型JA6047でしたが、飛行ログに詳細は記載しておらず残念。
当時は持ち込みカメラ。中継アンテナも機内床に空けた開口部に設置されたアンテナを手動で降ろして固定するようなアナログ的な機材でした。
2001年ようやく機械式カメラを導入、自動追尾機材も搭載したB427型JA009W契約になりました。
取材事象も広く対応できるよう多くの機材が搭載されました。
2002年7月6日「ももち報道K宣言」(今の「土曜NEWSファイルCUBE」の前身とする番組)が大型報道番組として放送開始され、
番組エンディングに福岡県内の各市町村空撮映像を流しました。
ボサノバの音楽にのせて放送されましたが、「エンディングの視聴率がいいんですよ~。」と企画したヘリ好きカメラマンが
ニコニコしてお話していたのを覚えておりこちらもホッコリ。
このエンディング取材飛行は週1回ぐらいのペースでしたが、2002年度43時間、2003年度49時間、2004年度14時間と約100時間を要するものでした。
おかげで市町村の見どころを網羅できました。
機械式カメラの素晴らしい画像、この機材で長く続くと思われた報道業界でしたが、ハイビジョン時代が到来。
報道会社も中継局等の改修がはじまり多額の投資がなされました。
ヘリもハイビジョン化に伴い新たなヘリへ移行することになり機種選定等を経て、2011年に現在のBK117C-2型JA08CHにたどり着きました。
燃料は満載できるような機材重量と形状抵抗を少なくした巡行速度確保を念頭に修理改造が朝日航洋様でなされ既に10年が過ぎました。
飛行時間や取材コメント等を2003年から集計しておりますが、映像センター、報道、アナウンサー他、関連会社、系列局等150名を超える方々が搭乗されました。
その中には1971年に脊振山での遭難事故取材当時のカメラマンもおられ安全飛行の重要性について教えていただきました。
TNC操縦士駆出し時代にベテランカメラマンに連れられて研修をしていた方々も既に部長クラスとなり、「安全飛行」を受け繋いでおられます。
運航会社側としても安全運航を再認識し、新時代史に向けて繋いでいかなければと考えております。
最初で最後の「沖縄」
運航部 高野 浩光
「今から沖縄に行けますか?」と、1本の電話がかかりました。
私は、いつもどおり平穏な報道待機をしており、思わず「沖縄ですか?」と返答してしまいました。
2007年(平成9年)8月20日、ちょうどその頃沖縄では、○○航空△△便の旅客機が那覇空港の駐機スポットで爆発炎上していました。
直ちに、沖縄へ向けての資料集めや燃料補給地点等の駐機スポットの予約など忙しくなりバタバタと準備をしました。
福岡放送様(以下FBSとさせていただきます)スタッフの2人が到着して直ちに飛行計画及び取材の打合せを実施し
2007年当時FBS専用報道取材機であったベル427型JA012Wに高野(操縦士)、土谷整備士、麻生さん(FBS)、永廣さん(FBS)の4名で搭乗し、
一路沖縄へ向け福岡空港を離陸しました。
与論空港までは駐機スポットの確保ができていたので当日は与論空港を基点として取材に行くつもりでしたが、
与論空港到着時には運航管理課で那覇空港事務所と調整ができており、駐機スポットの予約が取れていたので、直ちに那覇へ向かいました。
沖縄周辺は初めての飛行でした。
当時はまだアメリカ軍が沖縄周辺空域の管制をしており慣れないアメリカ人との交信や特異な空域を飛行して
遂に○○航空△△便の焼け落ちた残骸を取材したのち沖縄空港に着陸しました。
翌日はテレビ生中継の時間に合わせ2回のフライトを那覇空港ローカルで実施し取材終了となりました。
FBSの2人は旅客機にて福岡へ帰られるということとなり、土谷整備士と2人で那覇空港を離陸し、
途中奄美空港と種子島空港にて燃料補給をして福岡空港に戻りました。
今思い返しても、沖縄まで飛行したのはその時が最初で最後となったいい思い出です。
沖縄への出発の時は、他のTV報道局から取材要請がありませんでしたが、様々なお手伝いやご助言を頂きました。
また運航管理課にも空港の駐機スポット調整等スムーズに実施してもらったおかげで
時間ロスすることなくお客様へのご期待に沿えるサービスが提供できたことが今でも忘れることができません。
米国海兵隊オスプレイ来日KBC取材
運航部 安治 晃
オスプレイ(MV22)は在日米国海兵隊が使用するため2012年(平成26年)7月に米国サンディエゴから岩国基地に海上輸送されました。
そこで組み立て整備され米国海兵隊の沖縄県普天間航空基地まで空輸することになりました。
日本配備が決まってから国内では、オスプレイの不具合や事故が大々的に報じられていたこともあり、大きな関心事となりました。
九州沖縄各報道機関では、この関心事について総力を挙げて取材体制を確立し、普天間へ空輸される様子を、ヘリを使って生中継することになりました。
各報道ヘリは数日前より気合を入れて沖縄県へ移動。そうなると当然のように「那覇空港」の駐機スポットは一杯。KBCは「下地空港」で待機。
2012年10月2日に「隊長機」が普天間へ来ることになり、前日に那覇空港入り。予定時間前に離陸し普天間基地へ向かう。
しかし、普天間基地は那覇空港と米軍嘉手納飛行場の間にあり、各空域が重なりあい、制限高度も異なり大変込み入っているところです。
那覇空港から報道機が4機離陸しましたが、普天間上空では何処から来たのか総数7機のヘリがひしめいて、結果全機がホバリング状態となりました。
中継が終了するまで30分以上あったと記憶しています。
しかし、那覇空港のレーダーの指示を受けながら、航空機間の周波数を使いお互いの位置関係を報告し合って秩序良く中継をすることが出来ました。
報道に従事して何十年??となりますが、7機がホバリングして数十分もの間中継を行うのは、これからもないでしょう。
(1)日向幹線新設工事
九州南部系統の全停リスクの回避と九州中南部や東部における将来の電源開発に柔軟に対応するため、
南九州から中央までの50万ボルト送電線の2ルート化が必要になる。
その対策として東九州変電所からひむか変電所間に50万ボルト日向幹線124kmの新設工事が行われた。
大分県臼杵市 ~ 宮崎県木城町 鉄塔基数:291基
工事期間:2015年2月~2021年7月
ヘリ運搬鉄塔基数 : 27基 、運搬数量 : 30,000トン
ヘリポート(12カ所)
臼杵、因尾、堂ノ間、葛葉、深崎、北方、二股、東郷、坪谷、児洗、木城、尾八重
ヘリ延線亘長:123km、ロープ長:359.7km、41延線区間
(2)東北地方物輸
2020年4月4日新潟空港から新潟上越 頚城(くびき)線浦川原ヘリポートへの空輸を皮切りに、
21年秋期、23年夏期に、東北エアサービスの管理のもと東北全域で物輸を実施した。
当社にとって、これまでなかなか中国地方以東へ物輸機を持って行くことが出来なかった、井の中の蛙時代に終止符を打つと同時に、
西空の物輸は通用するはずだと人材、機体、装備を数年に亘って準備してきたことが報われ、実証された現場となった。
日向市東郷山中 No.264 残土地獄真っ只中
週30時間がノルマだったあの頃(上)
写真は新潟県十日町のヘリポート(左)
群馬県渋川市の坂井さんに頂いた。西空は激レアのため、わざわざ撮影に来たとのこと。
物資輸送について
運航部 櫻田 貴洋
~初めての搭乗確認者~
入社して1週間ほど経った頃、搭乗確認者見習いとして現場に行くことになりました。
ヘリポートは谷の行き止まりの崖を切り開いたような場所(脊振伊都線新設工事、飯場ヘリポート)で、
進入離脱は1方向のみ、ヘリポートへのアプローチは崖に突っ込んでいくような形でした。
初めてコパイロット席で誘導をした時のことは今でも鮮明に覚えています。
進入から荷をかけて離脱するまでの一連の流れの異常な速さ、物を吊った状態で山中の地面スレスレかつ超高速飛行、
新しく建てられた鉄塔と荷下ろしポイントの距離の近さ、あらゆることが驚きと怖さで一杯でした。
~過酷な日向幹線の日々~
2015年~2018年にかけての当社が過去最高収益を達成した日向幹線新設工事は、本当に忙しい毎日でした。
生コン打設の時期は、1日の運搬回数がコンスタントに100回を超え、天候確認のため日が昇る前にホテル出発、
仕事を終えホテルに帰着したのは日が完全に暮れた後などざらにありました。
また、翌朝から作業するために、作業終了後に日が暮れたヘリポートで社有車のライトでヘリを照らしながら25時間点検をしたこともありました。
そのような忙しい毎日でも、福田さん、當麻さん、中川さんの3人の機長は、全く疲労した様子を見せず、
クルーの誰よりも元気に日々淡々と仕事をこなし続けており、この方々はどれだけタフなんだろうと驚愕していました。
~物輸機長になって~
物輸機長になり、毎日のように飛行し、技量を向上させて諸先輩方の足元に少しでも近づくこと夢見ていましたが、
現在の仕事量では技量の維持さえも苦慮しています。
諸先輩方が日々魅せてくれていた高等技術の数々は、現状では目標とすることもおこがましく、遠い遠い憧れとなりました。
選ばれし者?
営業部 廣瀬 英人
営業員となって30年が過ぎ、そのほとんどを物輸業務に費やしました。その中でも代えがたい経験をしたことを書かせていただきます。
ある日のこと、上司から「ヒデちゃん、この日は何か用事がある?」と問われ、「ありません」と答えたのが運の尽き...。
「選ばれし者しか行けないところに行こうか、5時間登って2泊すればいいかな!」
当時「世界遺産」という人気テレビ番組があり、その撮影の協力でありました。その時はその場所について知っていることといえば雨が多い、
九州で一番高い山ぐらいしか知らず、ただ単に「選ばれし者」という言葉につられました。
「選ばれし者」=「一番暇だった者」であることを知ったのは帰ってきてからでした。
一か月半後、私は40kgの荷物を背負い、5時間ほど登山して、1時間ほど仕事をしました。
そのプロジェクトのリーダーであるMBC(南日本放送)ディレクターさん、以下関係者の皆さん、現地ガイドさん、
森林管理官などなど総勢20名ほどの一行になり、私は皆さんと山小屋でヘッドライトを灯して食事と少々のお酒をご相伴にあずかりました。
山の日暮れは早いため、早めの就寝をしようと思っていた刹那、「ここはせいぜい10名程しか入れないので、別の山小屋に移動します。
ヘッドライトを点けて付いてきて下さい」「飲まなきゃ良かった」と思いつつ、闇夜の山道をふらつきながら歩く15分ほどの時間が長く感じること・・・。
立派な小屋にたどり着くと、私たちは朝4時起きで登山して、明日は日の出の撮影だし早く寝たいのにと思っていたに違いないはずが、
あれよあれよと打合せと称した飲み会が始まりました。山に誰がこんなに持ってきたのかと思うほど有り余るほどのお酒と食べ物がありました。
宴はとうに日付を超えてお開きとなりました。
打合わせ1日4食酒付き、2泊して作業終了して下山後、私は久しぶりの布団のありがたさを一瞬感じて泥睡しました。
このプロジェクトは縄文杉の撮影でしたが、私にとっては「食いスギ、飲みスギ、縄文杉」な贅沢スギる忘れることのできない旅行でした。
凝りもせず、私の2回目の旅行は雨中のテント張り3連泊、カイロ6枚貼りでの就寝、
最終日は配給カイロ2枚と酒を多目にあおってシノギ切ることができました。
ここでも山中なのに食事とお酒は美味しくいただくことができ、ガイドさんに感謝でした。
天気による作業の中断があったものの、選ばれし者の片鱗を見せて意外にも順調に終えることができました。
見守ってくれた大王杉、夫婦杉に最敬礼して下山しました。
またまた凝りもせず、3回目の旅行の調査を終えて縄文杉から下山中、
「あっ!あの時のディレクターさんか?まさか、でもカメラ持ってるな・・・うそ、ここで?」
偶然にも1回目のプロジェクトでお会いしたMBCディレクターさんと17年ぶりの再会に何か運命めいたものを感じ、
私はやっぱり山が呼んでいるものだと勝手に思い込み抱き着くぐらいの勢いでご挨拶しました。
しかし、向こうは急いでいるようで、とてもそんな雰囲気ではないと悟り、元気をいただいて登山口に向かうとまた、雨で今度は土砂降りになりました。
そろそろ選ばれし者の世代交代を急がねばならず、私は若い営業員に「君も選ばれし者になるか?」と屋久島へ誘っています。
錯覚させてはいません。屋久島があなたを選んでくれているのですから。
余談ですが、我が粗家の表札は初めて屋久島に行った際、家も持たなかった頃に、
ついその風格に圧倒され選んでしまった樹齢三千年神木である屋久杉土埋木であります。
JR新坂本分岐線の思い出
営業部 関屋 吉人
2002年(平成14年)5月着手で1年間行われた九州新幹線への供給用線路は18基新設1基建替の工事だった。
19基のうちヘリ運搬は10基(1基は索道併用)で4JVと1社で施工された。
当時の私は27歳と若かったが現場代理人の命を受けた。最初は凄く不安で嫌でたまらかった。
広い資材配給所に各会社の事務所が並ぶ。初めて顔を合わせる各社の代理人や技術員「上手くやれるのか」と不安がよぎる。
当社は事務所を設けなかったので、ある1社の事務所を間借りする事に。
だが、そこの代理人が強面で「恐」と思ったが、話してみると優しいではないか。人を見た目で判断してはいけないと感じた瞬間でもある。
ヘリポートは2か所で荷吊場が1か所、うち一か所には2機同時に係留できるように着陸帯の間に燃料庫を設けた。
自分が考えたヘリポートが実際に出来ると何とも言えない感動がある。
ヘリポートも完成し、実際の作業が始まる。バラマキから始まり生コン、組立と同じ作業工程を10基分繰り返す。天候で飛べない時もあった。
急に霧に巻かれて身動きが取れない事もあった。「ホバリング状態の音だけ響いていた」
生コンが固まって数台分捨ててもらった事もあった。二日酔いになり事務所裏で・・・した事もあった。
機体の損傷も経験した。色んな事がありました。
この時JA9439、JA6027、JA003Wの3機で作業を行いましたが、この後JA9439は他社へ売却されていきました。
後にJA6027も別の会社へ…今はその会社の記念館で展示されてるようです。
1年にわたる工事を終え色々な学びや経験を経て人として成長できたと思う。
着陸帯に荷物が置いてあったので
別のヘリポートからフックを吊下げ飛来したJA6027。
荷物が無くなった後は無事に着陸し燃料補給を行いました。
作業を終えて係留するベル412EPと富士ベル204B-2(左)
なぜかAS350とベル412EPが一緒に係留(右)
組み立て中の鉄塔
ヘリコプター延線作業
整備部 松本 成希
ヘリコプター延線作業は何故か冬が多い。
脊振伊都線の延線作業も冬、2日で10リールというスケジュールでした。今回、私の担当はブレーキマン。絶対寒い。
まず、延線箇所の図面を見ながら、営業、パイロット、整備士、ブレーキマン、運航管理、関係者が集まり社内打ち合わせを事前に実施。
鉄塔間の距離・傾斜・角度・エンジン場・ドラム場などの情報から延線方向や順番、砂袋投下位置などを確認し決めます。
延線作業前日、機体の空輸と上空からの調査飛行を行い、ヘリポートに着陸。着陸後は飛行後点検・翌日の延線作業準備をし、
車に乗って砂袋投下位置などを現地確認します。
現地確認が終わると、架線業者様の現場事務所で九州電力様他、架線作業に係る全員が集まり全体会議を実施します。
架線業者様には金髪・ピアスの若い作業員から、少し強面のスキンヘッドの作業班長など、
この全体会議で延線方向・順番・砂袋投下位置・手順などを最終決定するため、ピリピリした雰囲気で行われます。
そんな中、作業内容や合図などを確認し全体会議は終了です。
その日の夜はホテルの部屋で、イメージトレーニング。この鉄塔間は上りなのでブレーキを強めに掛け最後に緩める、
次は角度がキツイ鉄塔なのでブレーキ緩めでロープをあまり張らないようにしないと2本目が延線できないなど、
図面を見ながら現場を思い出し、砂袋投下位置やブレーキの掛け具合などを自分で再確認します。
延線当日はグレーの空、風も強い冬の天気です。
延線作業は機長、コパイロット席の搭乗確認者、ブレーキマンの3人で実施します。
ブレーキマンの私は機長席の後方、スライドドアを開けた状態での作業なので、
完全防備で機体に搭乗、調査飛行を行い延線作業可能な天候だったので作業を開始。
飛行中の外気温度はマイナス。手はかじかみ、足までしびれてきて、機内通話用のフットスイッチが上手く踏めなくなるぐらい寒い。
1リールが30分~40分のフライトで、1リールごとに着陸し燃料補給を実施。
燃料補給の間、ヘリポートにある指揮所のストーブで暖を取るが、震えが止まらない。鼻水が垂れているけど、感覚が無い。
4リールを過ぎると集中力が切れてくるが、機長の正確な操縦、搭乗確認者の適切な情報と誘導、機内での円滑なコミュニケーションで無事に作業は終了。
2日間を乗切った。この寒さだけは忘れられない思い出です。
2013年6月末にNIMASの運航会社に当社が選定された。
「NIMAS(Nagasaki Island Medical Air System:長崎離島医師搬送システム)」
とは長崎県の離島医療に派遣される医師をヘリコプターで搬送する全国初の事業のことで、
「公益社団法人地域医療振興協会」が長崎県と協力して行うものである。
長崎県では従来から、離島での地域医療を支えるために本土から離島へ多くの医師が派遣されていたが、
多くの離島は船が唯一の交通手段で、離島への移動には時間がかかる上、運航ダイヤにも限りがあった。
この「NIMAS」では、本土~離島間の移動時間短縮のため、ヘリコプターによる移動手段を提供。
時間を気にせず多くの時間を診察に使うことが可能になった。
まず、2012年8月1日に当社機で運航をはじめ、翌年からは、協会が購入した「ベル429」を受託運航した。
当初はBK117とベル427を使い、その間ベル429を運航するための準備を整えた。
整備士、操縦士2名ずつがダラスのベル・フライト・アカデミーで訓練を受け、2013年2月7日に名古屋から長崎に機体を空輸。
協会が機体を受領し、お披露目した後、11日から運航を開始した。
その後同年6月28日にNIMAS専用の格納庫と事務所が竣工し、今まで間借りしていた事務所から引っ越しし運航体制が整備された。
どこ島のどの病院に医師を運ぶのかといった日々の運航スケジュールは、市立大村病院内にある地域医療振興協会の運航調整室が作成。
大体週に4日で土日は休みだったので、日曜日から出張して金曜日のフライトが終わったら引き上げるというサイクルだった。
朝、医師を長崎市内の場外離着陸場でピックアップして、上五島や小値賀空港で降ろし、小値賀空港の一室で夕方まで待機。
時間になったら迎えに行って帰ってくるというパターンで、
何もない離島の空港の一室でずっと待っているのがつらいといえばつらかったが、それを除けば割と楽な仕事であった。
そんな中で大変だったのは天候判断である。
天候等で運航できない場合は船で時間をかけていくことになるため、かなり早い時間に判断が必要で、
直前になってやっぱり飛べませんとは言えないので、怪しいときは運航を止めていたが、それでも1、2回ほど天候判断後にキャンセルしたことがあった。
また、整備士が1人で機体の出し入れを行うために、牽引式のドーリーを導入し機体をそれに載せて格納庫からエプロンまで出し入れを行うこととした。
そのため、操縦士にはドーリーの上に正確に機体を下ろす技術が求められた。
また、運航管理は機体が飛んで行った後に一人でドーリーをスポットから格納庫に戻し、
返ってくる頃にまたスポットに出さなければならなかったので、牽引の免許が必要であった。
佐賀県ドクターヘリで429を運航する当社にとって、この仕事は誠にありがたいものであった。
機体をお借りして型式移行訓練を行ったり、NIMSの仕事で429の機長時間を増やしたりできたので、佐賀県ドクターヘリの要員を多数養成することができた。
また、429がN類なので多発ライセンサーの飛行時間を稼ぐのにも都合が良かった。
そんなNIMASの仕事も2019年8月に地域医療振興協会が事業を今年度で終了すると決めたので2020年3月31日をもって終了。
機体は売却することになり当社が落札して購入した。
2020年4月1日からは、長崎県病院企業団を事業主体者とした離島等医療連携ヘリ事業(RIMCAS)が事業を継承した。
当社も引き続き事業を継続すべくRIMCASの入札に参加したが、落札することはかなわず、後継の運航会社に引き継いだ。
ドーリーに載せられた協会機(JA6794) 格納庫に隣接した事務所から機体が見られる
(1)レーザー測量
送電線の接近樹木接触による電気事故等を防止するため、ヘリコプターに搭載したレーザー装置で送電線と樹木の離隔距離計測を行っている。
業務はアジア航測株式会社様と連携して実施しており、当社はフライト、フライト中の機器操作、
データ取得後の解析作業はアジア航測株式会社が担当している。顧客は調査結果を踏まえて、接近樹木の伐採を計画する。
2023年6月、接近樹木調査で使用しているレーザー機器を『Galaxcy CM2000』に更新した。当社保有になってから当該機で2代目になる。
以前は九州電力がレーザー装置を所有していたが、機器不具合時の即応性(当社と機器メーカーが直接対応)等を勘案して
前機種のAX60i(2017年導入)から当社保有となった。
前機種のパルスレートは400kHz、カメラ画素数は0.6億、Galaxcy CM2000は2,000kHz、1.5億画素でより高密度計測が可能なスペックを有している。
主に九州電力の接近樹木調査で使用しているが、九州域外の接近樹木調査や官公庁の航空レーザー測量のフライト業務も受注しており、
当該機器を使用して、電力サポート事業である接近樹木調査を確実に実施するとともに一般レーザー計測受注拡大に取り組んでいる。
(2)HRIS(High Resolution Image System)
2019年、静止画カメラ(Shot
Over F1)をJA427Bに搭載した。
静止画カメラを“HRIS”と言っているが、正式には送電線点検に資する高解像度の静止画を撮影するシステムという
『High Resolution Image System』の略となっている。
九州電力送配電㈱において、静止画カメラを活用した航空巡視の業務効率化が推進されており、
2021年度から北九州支社・福岡支社管内の航空特定巡視及び架空地線点検で先行実施。
2022年度には佐賀支社・長崎支社に適用拡大し、2024年度には全社展開が予定されている。
全社展開に向けて、2台目の静止画カメラ(Cineflex)を追加購入し、2023年12月にJA002Wに修理改造予定となっている。
従来の巡視と異なる主な点は以下の3つ。
①巡視員が搭乗しない(当社クルーのみでフライト)
②当社社員がカメラ操作をして撮影する。
③撮影した画像の調整と整理を行う。
飛行方法が従来とは異なる、フライトプランの作成、カメラや画像処理に関する知識習得が必要など、
実質的に新規業務であるため、業務従事者は試行錯誤しながら業務に従事している。
2024年度の全社展開に向けて、調整/準備を進めていく予定である。
レーザー・チェリーボーイズ奮闘記
運航部 富山 雅也
我が社では仕事の一つに、送電線接近樹木調査の仕事があります。レーザー測量で一番印象的な仕事は、
2018年(平成30年)10月から約4か月間に及ぶ、西空の回転翼としては初めて実施した「一般測量」の仕事です。
大雨で被害を受けた広島における林野庁の大規模なミッションで、新日本ヘリコプター、東邦航空、つくば航空の各社、
フリーランスの操縦士等の精鋭達が広島ヘリポートに集結。
それを束ねるのはアジア航測様の、我々より飛行時間の多い関西弁丸出しのオペレーター達でした。
多い時で操縦士、整備士、オペレーターを合わせ20人以上いたこともあり、顔と名前が一致しない事が多々あり、
人が入れ替わるたびに初めましてが口癖になりました。
仕事は毎日が戦場で、飛ぶ時は毎日6時間近くフライトしており極寒の山岳地での飛行であるにもかかわらず、
不慣れな操縦法も重なって半袖で飛行しているのに汗でグッショり。
そんな厳しいフライトの夜の楽しみはもちろんお好み焼きです。トッピングは広島湾で採れた牡蠣をふんだんに使い、
毎日のように仕事の恨みをぶつけるが如く切り刻んで食べます。牡蠣と出汁のハーモニーがたまりません。
このレーザーの仕事を通じ、マッチングした他社の操縦士とのLINE交換で、年始にだけ来る連絡を受けることが楽しみになりました。
そして、ヘリコプターパイロットにはある意味思考回路がぶっ飛んでいる人が多いと感じました。もう、お好み焼きはいりません
たった1径間撮影しなかっただけで再撮影
運航部 矢野 貴之
「今までパトマン(電力会社のパトロール員)が同乗して送電線巡視をしていたが、これからは1億画素の写真で保全保守点検をしていく。」
その言葉を聞いたときはまだまだ先の話しだと入社2年目の私は感じていました。
しかし、あっという間に月日は経ち、入社5年目の2021年(令和3年)からHRISを使った巡視が始まってしまったではありませんか。
今までの巡視と大きく違います。飛行位置も速度もリジッドもです。
パトマンが同乗していたら、どの送電線か迷っても教えてくれるし、複雑な場所では高めに飛べば何とかなっていました。
しかし、パトマンなしで写真を撮影するとなればそうはいきません。
今まで以上に送電線を熟知しないと、間違った送電線の写真を商品として納めてしまいます。
特に○○地区なんて送電線が輻輳していて操縦士泣かせの場所です。
撮影を担当する整備士と地上でも確認、上空でも確認しながら撮った写真を納めたら、
「1径間足りません。」
えっ、たった20m撮影しなかっただけで再撮影ですか?自分の準備不足、送電線の熟知不足を痛感するフライトでした。
今後は送電線巡視の経験が少ない若い操縦士がこの仕事をしていくと考えると、さらに飛行前準備が重要になります。
彼らにバトンを渡す前に資料を残していかなければなりません。
導入した2020年(令和2年)では、1億画素というとカメラは高画質と呼ばれるものです。レンズも150倍で広域まではなかなか難しい。
また、ヘリコプターを使って一生懸命対象を間違えないように、いい写真を撮れるように操縦しています。
技術が発達し、操縦が楽になればいいなと思います。
この社史を二十年後誰かが読んだとき、今のHRISの仕事の形が「昔は大変だったんだな」と感じるような仕事になってほしいと思います。
西空の登竜門、送電線巡視
運航部 救仁郷 彬士
弊社では報道、ドクターヘリ、物輸などその他様々な業務がありますが、今回私が書かせていただく内容は巡視についてです。
巡視とはヘリコプターを用いて、上空から目視で高圧線鉄塔等の状況点検を行うものです。
私は30代前半に中途で入社しました。巡視は若手操縦士が飛行時間・操縦経験を積むことができる仕事です。
弊社の仕事の拠点は主に九州内であり、九州中を飛行して地形に応じた飛行法や地名を覚えることのできる巡視は、まさに若手に打って付けの仕事といえます。
整備士についても同様で、社内教育を終えて所定のOJTをこなすと、専門学校を出たばかりの経験の少ない若い整備士が巡視の機体を任されることになります。
何もなければそれに越したことはありませんが、1~2週間出張に出ていれば、タイミング良く(?)何かが起こります。
もちろん私も出張中いくつかトラブルに見舞われたことがありました。中でも一番印象に残るのは、MGB(Main Gear Box)からのオイル漏れです。
詳細は省きますが、着陸後オイルに染まる機体を見た時の恐怖心は今でも忘れられません。
その後会社から別の機体を空輸してもらい、機体を乗り継いで仕事を終えた後に「お疲れ様でした。」と整備士が缶コーヒーをご馳走してくれました。
一息つこうとプルタブを引くと、裏には「当たり」の文字がありました。本当にラッキーだったんだなと実感しました。
そのプルタブは今もお守りに持っています。
気が付けば年齢も40手前になり、毎年数名の操縦士採用もあって後輩も増え、若手ではなくなりました。
機器の性能進化も目覚ましく、巡視もHRISを使用した画像撮影に置き換わりつつあります。
飛ぶ機会も少なくなる中、ステップアップした仕事に就くには必要な機長時数と経験が求められる、組織として人材育成を考えさせられる時代だと思います。
ただ、若手の方には晴れやかに出張に出発し、笑顔で帰ってきて欲しいと思う今日この頃です。